吉野ヶ里遺跡と土
吉野ケ里遺跡は、教科書にも登場する佐賀県にある弥生時代の遺跡を復元した国の特別史跡に指定されている環壕集落跡です。この遺跡が復元され一部が開園されたのが平成13年4月からになります。縄文時代は移動しながらの狩猟や採取がメインの生活でしたが、稲作をするようになり、集団で定住生活をするようになった弥生時代の姿を見ることが出来る公園です。
竪穴住居に宿泊や火起こし体験などもできる学習型公園として、子供から大人までが楽しめる施設になっています。
是非、公園を訪れて、自分なりに古代に興味を膨らませてください。
JR吉野ケ里公園駅から歩いて約11分です。
現在、吉野ケ里遺跡では、10年ぶりに発掘調査が始まっております。このエリアは、日吉神社跡地で「謎のエリア」と呼ばれている場所です。今後、有力者の墓などが見つかる可能性もあるということなので楽しみですね。実は、吉野ケ里公園内の写真を並べて紹介しようと思いましたが、この公園のことはネットを開けば大抵のことは知ることができるので、ここでは自分で思うことを自分なりに書いていくことにしました。
●縄文時代から弥生時代へ
縄文時代と弥生時代の区分は、縄文時代は狩猟・採取が中心で、弥生時代は米作りが生活の中心になり、集落ができました。最近の科学では、縄文時代は狩猟・採取が中心で農耕は弥生時代になってから発展したといわれていましたが、熊本大学が米につく虫であるコクゾウムシの圧痕を北海道の縄文土器から発見し、縄文時代からすでにツルマメ等の植物を栽培し、貯蔵する文化が生まれていたのではないかと発表しました。つまり、育てる文化はすでに縄文時代からあったということになります。稲作が発展したのは、もちろん弥生時代に違いはありませんが、根底には縄文時代から栽培をするという文化が育まれていたことになり、今後、縄文時代に対する考え方が見直されるかもしれませんね。
「推定500匹のコクゾウムシが練り込まれた土器を発見」(熊本大学)
また、能登半島には、縄文時代に4000年も続く長期定住型集落遺跡「国指定遺跡真脇遺跡」が見つかっており、生活環境が良ければ、狩猟や栽培で住居を移動しなくてもすんでいたということが取り上げられていました。つまり、この地域には、漁業という恵まれた資源があったので、集落をつくって、縄文時代にはすでに定住生活をすでにしていたということになります。移動しながらの生活か定住生活かだけでは縄文・弥生を判断できなくなっているという一例になります。
「真脇遺跡」(ほっと石川旅ねっと)
●竪穴住居の土葺屋根
吉野ヶ里歴史公園には、多くの竪穴住居や物見櫓などがあります。タイトルにもありますように、私にとって、一番の関心事は「土」をどのような形で利用していたかということになります。
一般的に多くの竪穴住居の復元は、茅葺屋根で行われていますが、ほかの地域の遺跡では樹皮や土で覆われたものもあります。吉野ヶ里歴史公園の竪穴住居も茅葺屋根で復元されています。
全国の竪穴住居の焼失住居の炭化材調査で自然科学的な分析を行うと、屋根材に何が使われていたかが年代とともに樹種がわかるそうです。その炭化材調査の結果では、茅は出土量が少なく、実は土葺(土屋根)の住居が主流だったとの見方もあります。
縄文人の家、「茅葺き」から「土屋根」へ 研究30年の成果(産経新聞)
上記によると、茅葺屋根は登呂遺跡などで復元された際に採用され、他の地域の竪穴住居の復元でも登呂遺跡の茅葺屋根に追随したので、多く遺跡が茅葺屋根になったと言われています。つまり、当時は屋根の素材が分かっていなかったから「茅」になっただけで、本当は土屋根が多かった可能性が高いようです。これは竪穴住居の焼失住居跡調査の成果だそうです。
土屋根の土は固めるとひび割れで水が浸入するので、固めないで柔らかいまま屋根に乗せていたようです。土で覆われれば、土は当然ズレて落ちるので、雑草を生やしていました。土は雨が浸透するので樹皮等を下地に敷き詰めての防水対策や、屋根勾配も茅葺屋根に比べて緩やかにしていました。
実際に榛名山二ッ岳の大噴火で埋まっていた群馬県渋川市の中筋遺跡では、勾配の緩い屋根はかなり低く、茅葺きの屋根には土がのせられていたそうです。実際に復元してみると、低い屋根は作業を行うのに有利であり、土を葺くことで断熱効果も高いことがわかったそうです。竪穴住居の復元案としては登呂よりもずっと説得力があるようです。(国立歴史民俗博物館)
●竪穴住居の壁や床
竪穴住居の床は地面より掘り下げて整地します。吉野ヶ里歴史公園の竪穴住居は、結構深く掘られています。全国にはこうした深い床も多く存在します。深い方が暖かく、住みやすいと思いますが、湿気はすごいと思います。特に、吉野ヶ里歴史公園の竪穴住居では煮炊きした痕跡が見つかっていないようなので、炉に火がなければカビ対策はどのようにして防いだのでしょうか?
稲作の場所から近いところに住居を構えれば地下水位も高くなるし、深く掘ればそれだけこうした湿気のリスクも高くなるような気がします。
屋根から落下した雨水は地面に浸透し、水は毛管現象で竪穴住居の中に浸透してきます。粘性土を壁に塗り付けただけでは対策にならないと思います。当時は十分な道具がない中で、竪穴住居を造ったわけで、土質の知識がないと、長く住む住居は出来なかったように思われます。
住居内には、床より10㎝程度高いところに寝間を見ることができます。壁面は壁塗りを重ねたか、版築のように締固めて水の浸入を防いでいたか、また、周囲を板や丸太で覆って土壁が崩れるのを防いでいたのかもしれませんね。また、大水の時の流入もありうるので、排水溝も必要だったと思います。
現代であれば、掘るための重機も固めるためのセメントや石灰といった材料があるので、竪穴住居は簡単に造れると思いますが、吉野ケ里遺跡ぐらいの規模になると、のちの土師氏のような技術者集団がいた可能性もありますね。
●壕
環壕集落周りには軍事施設としての二重の壕がありますが、掘って出てきた土を盛土して土塁が造られ、その上に柵を造ったと思われます。当時は簡単に崩れないように木の枝や土を交互に重ねながら積み上げて強固にしたのか、異なる土を重ねて版築のように締め固めたのか、土台に石積みを設置して崩れないように基礎を置いていたのか・・・材料や重機がない時代にどうやって土を利用して環壕集落を造ったのか今後調べてみたいと思います。
自然のものを利用して、約1万年続いた縄文時代、その後の弥生時代には、循環型社会のお手本になることがたくさんあります。サスティナビリティの実現を目指して取り組んでいきましょう。
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